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科学理論があり、それにふさわしいガラスがあります。でも最高の顕微鏡を作ろうとすれば、ほかにも究めなければならない要素があります。ここからは、アウグスト・ケーラー教授にご登場願いましょう。
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| August Koehler (1866 - 1948) |  |
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1893年の27歳の時、ケーラーは顕微鏡写真撮影用の照明法についての論文を書きました。ケーラー照明として知られるこの方法によって、アッベの対物レンズの解像力が100%引き出せました。これが偶然であるはずがありません。彼はこの照明法をひっさげてカールツァイス社に入り、その後に顕微鏡開発の担当となりました。それから今日まで顕微鏡技術にケーラー照明より適した照明法は現れていません。
このブレークスルーと躍進の時期に、会社の創設者であり牽引者であった人物がこの世を去りました。1888年12月3日、カール・ツァイスが亡くなりました。彼の死は大きな喪失でした。単なるパートナーの域を超え、かけがえのない友人でもあった故人に敬意を表するため、エルンスト・アッベは1889年にカールツァイス財団を設立し、カールツァイス社とショットガラス会社の自己所有分を財団に提供、カール・ツァイスの息子であり、1881年以来共同出資者であったローデリッヒもこれに同調しました。
悲しみの渦中にあっても、残された人々はツァイスの遺志を継いで事業を推し進めました。そうして19世紀最後の10年は、顕微鏡の歴史に多くの足跡を残しました。来るべき新世紀を視野に入れた発明やデザインの革新が数多く誕生しました。金属顕微鏡、収差補正レンズ、正立プリズムの入った双眼顕微鏡など、その進歩の速さにはツァイスのような特異な企業にして、なおめざましいものがあります。
1896年はまた違う出来事がありました。アッベはアメリカの植物学者ホレイショ・S・グリーノと出会いました。そこで早速専門の話をし、ほどなく議論の中心は立体顕微鏡という、当時としては夢のようなアイデアに向かいました。そのアイデアは幸運の星の下に生まれました。アメリカからの訪問者グリノーは1枚の紙にスケッチを描いたところ、「これだ!」とアッベは確信しました。スケッチはその年の終わり頃、ツァイスの製品としてこの世に出ました。夢は実現したのです。
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